2023年講話と夕食の会 (神奈川近代文学館)

講話と夕食の会 報告(2023年12月2日13時半~16時半)

 神奈川山梨教会連合会信徒部主催の講話と夕食の会が、開かれた。毎年恒例の行事で、12月第1土曜日、今回は港の見える丘公園の奥にある神奈川近代文学館の会議室、50人は入る、綺麗で立派な施設であった。横浜港が見える展望台からさらに歩くこと7,8分、橋をわたった処にあった。

 

 今回は各教会の信徒部委員である、鈴木徳昭さん(平塚)、高橋義吉さん(藤沢)、山口和賀雄さん(子安)、辻秀志さん(小田原)の4氏に、「私と金光教」と題してお話して頂いた。


 定刻に司会の山田初子さんから開会宣言があり、
 連合会副会長の村田光治先生のご祈念とご挨拶を頂いた。

 「金光教の教典を紐解くと、多くは『伝え』という形になっている。教祖様からいただいた言葉をそれぞれの体を通したものが今に伝わって、私たちは、み教えとして頂いているのだと思う。時代を経てなお、それを頂き真似る、それを基に行動することで、そこに助かりや救いが生まれることはすごい事だと改めて思わされる。

 今回は4人の方の受け止め方、体を通した信心を頂くということになる。ベースは同じ金光教の信心、同じように喜びや助かりが生まれることを願っている。どうぞリラックスして、存分に思う処を語って下さい」

 続いて、山口信徒部長の挨拶、「今回も大勢の皆さんのお世話になって、この会を開くことが出来る。ポスターは箕田朋歩さん、チラシは村田先生、会場を準備したり、案内に立ったり、茶菓子を用意したり、と皆さんに活躍して頂いた。お礼申しあげる。今日はお話を聞いて、信心の勉強をさせて頂きたい。よろしくお願い申し上げる」


〇 一番バッターは鈴木徳昭(のりあき)さん


 「私の母は倶知安(くっちゃん)教会の娘で、だから教会には子供のころから出入りしていた。特に信心とか金光教とか構えることなく、育ってきたと思う。就職後、神奈川県に住むことになったが、来年は後期高齢者ということになる。今までよく無事に生きてこられたなあと安堵して、お礼の気持ちは強く持っている。私の少し特異な体験をお話したい。

 あることから、日中友好協会に関わりを持つことになり、何か企画をたててほしいと言われた。中国という国は大きい、都市部を旅行しただけでは、よく理解できないのではないか、自転車でゆっくりじっくり観るのはどうかと思いつき、総延長1794キロの運河「京杭大運河」にそって、農村部をサイクリングするという旅の企画を立てた。中国という国に好奇心はあったのだが、案内の文書を作成するだけでも、手探りの状態。『自転車で走破する大運河』という名称をつけ、様々な団体、自治体、マスコミなどに後援の依頼をし、参加者の募集をした。

 私の仕事は、空調・衛生設備の保守管理であり、全く無縁である旅行を企画・運営するという、言わば無謀な試みに挑戦したことになるが、いろいろな偶然が重なり、思いがけないことがあったりして、結局1988年から1993年の6年をかけて、この旅を完遂することが出来た。1800キロを6回に分けて、1年に300キロを自転車で動くという旅になったが、延べ200人を超える人々が参加してくれ、その間一度も事故がなかったのは、非常に有難いことだった。

 それまでにも中国に旅行したことはあったが、バスや列車を使って都市部を廻っただけ、またサイクリングも特に経験がなかったので、中国の農村部について、自転車についてはかなり勉強した。しかも、始めから企画運営に関わってきたのは、私だけということで、団長を仰せつかることになり、元々人とコミュニケーションをとることは得意ではなく、挨拶も苦手なのに、何とかそのお役目を全うさせて頂いた。そのことも感謝している。

 参加者は全国から申し込みがあり、10代から70代まで、女性が4割居て、今もなお「よく走れたなあ」と思っている。先頭から最後尾まで、何キロも離れているという状態で、事故や事件に巻き込まれることがなかったのは、今考えても不思議な気がする。

 私自身はお届というものをしたことがなく、金光教というものに正面から向き合って来なかったと言えるのに、知らず知らずのうちに『おかげ』というものを頂いて来たのだと感じる昨今です」



〇 続いて、二人目は高橋義吉(かずよし)さん

 

 現在放映中の大河ドラマ『どうする、家康』に倣って、私のどうする?を話させて頂きたいという出だしで、お話は始まった。

 「大学の工学部機械工学科を卒業後、横浜市役所の下水道局に入所。係長昇格試験に合格し、現場の業務を経験した後、横浜国際競技場(ニッサンスタジアム)の建設担当として、転勤した。

 そして、一度目のピンチは、この競技場に排水計画が出来ていない!ということ。排水施設がなかったら、施設として機能出来ないのは当然。さて、どうするか。

 二度目のピンチは、せせらぎの排水を認めてもらえないということ。(この辺り、高橋さんからは手書きの図面を使って詳しい説明があったが、機械に弱い筆者に理解できず、割愛させて頂きます)。

 そして三度目のピンチは、滅多に倒れない超大型のクレーン車が2回続けて倒壊したこと。余りのことに神主さんにお祓いを頼んだが、ご利益がなかったとして、二度目は僧侶にお願いした。排水計画については、担当者が変わった段階で、あっさり認められた。

 さらに、次のピンチは、バルセロナに出張した時のこと、当時毎朝やっていたジョキングをし、オリンピックのマラソンコースを走って、かなり遠くまで行った。帰りはタクシーに乗るつもりで、車を停めたら、乗車拒否にあった。風体は短パンにTシャツ、怪しまれたらしい。飛行機の搭乗時間は迫り、乗り遅れたら大変なことになる。必死に近道を探って走り、朝食も食べられなかったが、何とかギリギリ飛行機には間に合った。

 さらに、下水処理場のセンター長になって、転勤すると、まるで待っていたかのように、ピンチが続いた。大型ブロアーの焼損が起き、原因究明と対策の責任者になったが、コントローラーが動かず、修理には1億円かかるという。さらに水処理施設の地下管路が水没し、処理不能となってしまった。また放射能汚染で焼却灰の処分が出来なくなった。ああ、なぜ自分の時ばかり、こういうことが起きるのか------。

 私の来るのを待っていたかのように、次々と問題が起きるのか、と思わないわけではない。が、神様から与えられた難儀なら、超えられないはずはないと思って、頑張ってやってきた。

 そして、実際乗り越えられてきた。今年の藤沢教会の信心目標は「難儀を超えて行きましょう」。皆さん、ともどもに頑張りましょう」

質問が出て、「金光教の信心をしていて、よかったと思うことは何ですか?」
高橋さんの答えは、「いい奥さんをもらえたことです」会場は明るい笑いに包まれた。


〇 3番目は山口和賀雄さん

「父親が熱心な信者で、私の和賀雄という名前は、当時の神奈川教会長・福田源三郎先生がつけてくれた。父親が私を連れてよく参拝していたが、当時はお菓子をくれる所というくらいの認識だった。中学生になってからは、ほとんど教会にも行かなかった。

 が、おかげは頂いていて、小学校に上がる前、バックしてきたトラックの下敷きになったが、タイヤの間に入ったので、おでこを擦りむいた程度。さらに50代で、ブラジルのコバカバーナ海岸でおぼれそうになったこと、60代で梅の木の剪定をしていて、落下したとき、後頭部を打ったが、軟らかい地面だったので、助かった。

 サラリーマン時代は、まずまず順調だった。もちろん長い期間なので、いろいろあったが、人にも仕事にも恵まれて、事業部門の責任者にもなれた。その間、教会にはあまりお参りしなかったが、喜実雄先生からは、事あるごとに御用を頼まれた。「神の綱が切れたというが、神は切らぬ、氏子から切るな」というみ教えを知った時、これかなあと思った。

 2016年、光治先生から連合会の信徒部委員になってほしいと言われて、会議に出るくらいならと気軽に応じたが、2020年になって、信徒部長をお受けすることになった。先生方や信者さんたちとお知り合いになり、いろいろ教えて頂き、勉強になり、金光教に対する理解が深まったと思う。

 今は、父の遺した立派な神棚を洒掃するほかに、前にはしていなかったご祈念をしている。毎朝子安教会のご祈念『日々の願い』を奉唱し、車の運転前には、手を合わせて祈っている。大祭に頂いた『こころの練習帳』にあるように、毎日ひとつ、自分宛にメールを出している。

 貸して頂いたいろいろな本を読むうち、信心にも段階があることを知った。痛いのが治ったのを喜ぶのが、『与えられる喜び』、いつもマメなを喜ぶのが『与えられていることを知る喜び』、有難かったことを思い出して、祈ってあげるのが『与える喜び』、そしてかわいそうに思って、我が身を忘れて人を助けるのが『尽くす喜び』だという。私は三段階目の『与える喜び』を目指して行きたい。

 最後に金光教への疑問とか提言について話してみたい。ご本部の現在の施設は立派で素晴らしいと思うが、古くなって来ている。このままにしておくと、そう遠くない時期に、使えなくなるかもしれない。そうなる前に、手を打たなければと思う。

 教祖150年までに10年ある。何とかして頂きたいし、何とかしなければならないと考えている。旧統一教会の問題があったり、金光教では昔から『信者を傷めない』という考え方があって、それは尊いことだと思うが、少し考えを変えていかねばならない時期ではないかと思う」


〇 最後は辻秀志さん

 おい立ちから詳しく説明された。「父は富山の出身で、大阪の薬問屋に奉公し、そこで知り合った母と結婚した。母は当時玉水教会に参拝していて、熱心な金光教の信者であった。結婚後、小田原に転居、教会から徒歩10分の処に住んだ。

 昭和15年生まれの私は、当時の教会長・伊藤先生の命名で、秀志(ひでし)と名付けられた。小田原高校を卒業後、受験に失敗、浪人したが、その頃熱心に教会にお参りし、黙々とご祈念した。幸い、予備校では特待生になり、授業料を免除されて、翌年志望校に合格させて頂いた。

 昭和39年、大学卒業後、東芝に就職し、精密機械加工工場で、設計、製造管理、生産技術、プロジェクト管理、などを担当したあと、姫路工場へ単身赴任した。困ったこともあったが、必死にご祈念して乗り切った。ご祈念をすると、不思議に解決方法を思いついた。

 大学1年の時に、安田教会長から『空想から科学へ』『資本論』『弁証法』などを勧められて読み、御伝記『金光大神』も読んだ。少年少女会のお世話をさせて頂いたこともあり、本部で行われる大学生の一泊合宿にも参加した。この頃、鶴見俊輔教授の『哲学概論』で転向をテーマとした事例調査レポートの宿題があり、安田先生に、「それなら自分のことを書けばいい」と口述筆記をしたことがある。控えを残しておらず、残念でならない。金光教の教義や神前拝詞など拝詞は、理系の人間から見て、納得できるものだと感じている。

 30歳で結婚、小田原教会のお広前で挙式させて頂き、すぐに子供が出来たが、産道が狭く、帝王切開で出産した。保育室に1週間入ったりして、心配したが、その後は順調に育ち、今春、その娘は北大の社会教育学の教授にならせて頂いた。

 私は56歳の定年後、中小企業診断士や技術士の資格を得て、コンサルタント活動をした。日本だけでなく、台湾、中国、フィリピン、メキシコなどでも活動させて頂いた。


 輔教の制度があることを知り、教会長にお願いし、講習を受けて、輔教にならせて頂き、今は祭典の準備や進行の補助要員の御用のほか、奥城の洒掃と参拝をさせて頂いている。

 両親が亡くなったあと、金光教で葬儀を出して頂き、正真正銘の教徒になれたと思っている。母は父の「葬儀をきちんと出してね」が口癖だったが、その願いもかなえてあげられたと思っている。

 金光教は、取次者が信者の悩みや願いを聞いて、それを神に伝え、神からの答えを理解し、信者に伝える『取次』が基本的な信心の形と理解しているが、現在、この形が生きているのだろうか、と疑問に思っている。信者の側も、ただお祭に参拝するのでなく、普通の日にお参りして、ゆっくりお取次を頂くのが筋だろうと思っている。また教会役員は教会活動の総括や計画作りにもっと寄与してもらいたいと思っている」


 以上で、4人の方々の発表は終り、休憩の後、出席者の方々の自己紹介と今日の感想をお願いした

 「4人の方々の赤裸々なお話が聴けてよかった」「お仕事の苦労の一端が見えて大変だったんだなと思った」「それぞれの信心体験が聞けて参考になった」「直接信心の話をされない方も、心には教えを頂いているのだなあと思った」などの声が聴けた。


最後に平塚教会長・奥川美智雄先生の感話を頂いた。

 「山田信二先生が体調不良で欠席され、そのためピンチヒッターでお話させて頂く。今日は母の命日で、本来なら墓前祭をお仕えせねばならないところ、父が1月9日に亡くなっているので、二人のお祭を1月6日にさせて頂くことに決めた。そのため、今日は参加させて頂けて、よいお話を聞けたと有難く思っている。

 4人の方々のお話を聞いて、仕事を通じて、立派に社会に貢献してこられ、また苦労もおありになったのだなあと感じた。金光教には、まだまだ立派な方がたくさん居られるはず、これからもたくさんの方に発表して頂きたいと思った。

 『信心せんでもおかげはやってある』というみ教えがあるが、皆さんが信心をしていないということではない。4人の方々は『信心が出来ていない』とおっしゃっていたが、そういうことはないと思う。お水をお供えする、榊の水を取り替える、そういうことも信心の一つだと思う。

 皆さんは気づいていないだけで、信心は出来ているのだ。だからこそ、おかげを頂けたのだろうと思う。また親様・御霊様の祈りや願いが皆さんのところに届いて、それでおかげを頂けるということもあるのだと思う。

 いいお話を聞かせて頂いたが、お帰りになったら、ぜひ教会長や信者さん方に今日のお話をして頂きたいものと思う」

 引き続きご祈念を頂いて、写真を撮り、解散した。10教会から19名の参加であった。


(報告・大塚東子)

 

2023年12月02日