2021年第4回教師会(オンライン会議)

 去る、12月14日(火)午後1時30分から16時10分までリモートによる第四回教師会が開催された。9教会(神奈川・平塚。登戸・横浜西・子安・丸子・相模原・甲府・大明)の10名出席。

 開会行事、会長挨拶後、各部・各プロジェクト、フォーラムから今年度の報告、来年度の活動について説明が行われた。

 引き続いて、教師部の定期教話実施と時期について、再度協議した結果、コロナ感染状況次第で変更せざるを得ないことを想定し、3月から11月までの期間内で実施することが望ましいとした。

 また、神奈川山梨教会連合会130年記念事業について話し合われ、10月1日(土)ご霊地集会を午後2時30分より繰り上げて開始し、金光様お引け見送りで第一日の終了することになった。

 


 続いて、今年度の「取次と教導」について、牧野眞幸師(甲府教会長)が次のように語った。

 

〇「取次と教導の充実のために」というテーマでお話しすることに大変困惑している。
 教会で生まれ育ったが、親からあまり信心を強制されたこともなく、金光教のこともよく分かっていなかった。


〇早く教会を出て自由に自分のしたいことをしたかったが、さりとて、何を本当にしたいのかも分からず、紆余曲折の末、伝統工芸を学ぼうと京都に出た。

 しかし、生活のためにやむを得ず就職した先が、NCC宗教研究所というところで、そこはキリスト教を日本に根付かせるためには、もっと日本の伝統、文化、宗教等を学ばなければならないという目的で設立された研究所で、大学の教授や牧師、神父、宣教師、それから日本の宗教を学ぼうとする外国人研究者が出入りし、研究会やゼミナールを開催したり、機関誌などを発行していた。

 毎年、泊りがけで日本の宗教の本山、本部にも行って、そこのトップの方たちの講義や修行(例えば座禅)を体験し、金光教の本部にも行った。

〇そのように門前の小僧で、いろいろな宗教を見聞きし、真摯に信仰されている方々に出会っているうちに、私の心の中に大きな変化が起こった。

 自分の家が金光教の教会ということを言っていなかった私は、自分の拠って立つところを偽ってきたことにひどく良心が痛んだ。

〇研究所には図書室もあって、日本の諸宗教の本が沢山あり、私は初めて金光教に関する本や、高橋正雄先生を始め、素晴らしい先生方の本を読んで、金光教ってこんなにすごい宗教なんだと感動した。

〇その頃、私は休みの日には、よく京都近辺の山に登っていたが、愛宕山の中腹にある月輪寺という歴史のある名刹で休憩をし、そこの尼僧さんの話を聞いたとき、私と境遇がとても似ているのに驚いた。

 尼僧さんは、一日も早くそんな山の中の寺を出たくて、高校を卒業して社会に出、しばらくして結婚したが、うまく行かず苦しんだ末、まるで阿弥陀様に導かれるように比叡山に入って修行し、尼さんになってこの寺に帰って来たということだった。

 今は阿弥陀様のふところに抱かれているような安らかな気持ちで、何をしていても阿弥陀様の掌の中で守られていたことを悟ったと話して下さった。

〇私も、教会が嫌で家を出たのに、どうして偶然宗教研究所なんかに入ったのか、どうして本を通して高橋先生に出会ったのか、そこに神様のお慮らいがあるような気がしてならない。

〇その時、私はいろいろなことで行き詰まっていた。高橋先生は「道が間違っていれば、行き詰まらせて下さる」と言われた。そうか、私は自分を偽り、道を間違えたので、神様が助けようと行き詰まらせて下さったのか。

 この高橋先生の言葉は本からではあったが、私を180度変え、心の目を覚まして下さったという意味で、私にとって最初の取次だったのだと思う。

〇仕事を辞め、しばらく京都と甲府を行き来しながら、父のご用を手伝ったり、ご信者さんたちと親しく交わっているうちに、父の仕事の尊さやご信者さんの温かさに触れ、次第に金光教に惹かれていったが、まだ家を継いで金光教の教師になろうという考えはなかった。

 ところが、父もご信者さんたちも皆、後継者と期待していた義兄が突然心臓病で急逝した。その時父はもう90近い高齢であったが、そのような切羽詰まった事情で私が教会を継ごうと決心したわけではなく、ごく自然に、私があとをさせていただこうという気持ちにさせて頂いたのである。

〇そのような諸々の事情によって、私は学院に入って修行も勉強もすることなく、教師にお取り立て頂いてしまったので、それまでに真剣にお結界に向かってお取次して頂いたことも、させて頂いたこともなかった。まして教導など出来るわけもない。

〇取次については、二代白神先生が、金光四神さまに奥義をお尋ねした時、「思うたことをそのまま話してやれば、後は神様がよいように合わせて下さる」とあるが、それはやはり取次者にそれだけの信心力、徳がなければ出来ることではないと思う。

 取次の実際では堀尾保治先生の、信者の願を神のみ心に叶うように転換させる導きに深く感銘を受けた。とは言え私にそんな力はなく、未だに自信をもって取次も教導も出来ていないが、信者さんたちと一緒に信心させて頂く、自分の出来ることは何でもさせてもらおうというスタンスで(なかなかそうはいきませんが)教会におらせてもらっている



 その発題をもとに取次と教導について、質疑及び懇談した。(記。安達幸則)

2021年12月14日