2017年第1回 輔教懇談会(横浜西教会)

(2017/02/19)


 平成29年2月19日(13時~16時)、横浜西教会で行いました。これで、一昨年から年1回のペースで開催していることになります。

 出席した輔教は、5教会から13名でした。

 ご祈念は、連合会長で講師の山田信二先生(横浜西教会長)の先唱で天地書附をいただき、神奈川山梨教会連合会の基本方針と活動方針を唱和しました。

 続いて、「輔教に期待される役割とは」との講題で山田先生のお話を聴きました。

講話の概要は次の通りです。
 1.輔教に期待される役割とは
 2.輔教の働き
 3.輔教の喜び
 4.談話後の懇談
 
講題「輔教に期待される役割とは」

1、輔教とは
困った時にお参り(お願い)に来るのが普通の人である。湯川安太郎先生は、「神様、助けて下さい」と口では言っていても、それは「カミ公、助けろ」と言っているのと同じだと戒めておられる。しかし、それが普通だと思わなければならない。

御用の受け止め方も信者さんによって、実に様々で「教会で、便所掃除をさせられた」と文句を言った人もいるくらいであるが、これもまた普通のことだと思っていないと、人を不用意に批判することになりかねない。

普通の信者さんは「御用」を理解していないことも多い。いっぽうで輔教は「神様に使って頂きたい」と願っている人のことである。そう願って、輔教になったはずである。「神様に使って頂ける人」でいてほしい。

「輔教と信徒総代はどちらが上か」と訊かれたことがある。役目の軽重として、例えばどちらが先に玉串をするかという違いはあっても、神様の前ではどちらも同じ氏子であって、違いはない。元々一般の信者さんと輔教、総代に違いはない。あるとするなら、自覚を持っているかどうかだけ。

そもそも教師と信者にも違いはなく、神様の目からみたら、皆、同じ氏子。教師としての御用をしたい、そのために教師としてあるべき姿を模索し、理想の姿に近づくべく日々努力する、そこに違いがあるだけだろうと思う。輔教も同じこと。輔教はどうあるべきか、輔教はどんな御用をすればいいのか、どんなことをして神様に喜んで頂けばいいのか、を模索していけばいいのだろうと思う。

私は、若い頃、学院を出て教師になれば、今日からお取次が出来るのかと思っていた。そんなことは全然出来なかった。輔教も同じことだろうと思う。講習を受けたからと言って、教会に戻って輔教の御用が出来るわけではないのだ。

教祖様は「私のことを神、神と言いますが、おかしいではありませんか。私が、なんの、神であろうぞ。私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります」(徳永健次の伝え)と言っておられる。これは教祖様の謙虚とも聞こえるし、確かにそういう面もあろうけれど、私はこれを教祖様の自戒と捉えている。人間としてのうぬぼれやすい危うさを自覚しておられたのだと思う。教師も輔教もこれをお手本にしたらいいと考えている。

2、輔教の働き
輔教も教師も神様から見たら、同じ氏子。つまり、輔教は一般の信者さんと比べて、決してえらいわけではない。逆に、ある先生は、教師は一般の信者さんに比べてめぐりが深いから教師になるのだと言われているくらいである。教師や輔教は、信心が出来ているから教師・輔教になったわけではない、と考えたほうがいい。

では私たちはどうすればいいのだろうか。私は、輔教の働きの一つとして、下から支えるということがあると思う。困っている人、辛い人の気持ちに寄り添う人になれたらすばらしい。居心地のいい教会の雰囲気作りを心がけ、困っている人、慣れない人、新しくお参りしてきた人には、積極的に声をかける。問題を抱えている人があれば、陰ながら祈る。ほかの信者さんが気づかないようなことに気づいたら、呼びかけをする。このようなことを強引にならないように、自然にふるまえるといいと思う。

また、布教を意識する人でありたい。ささやかなこと、例えば教会前を綺麗にお掃除することも立派な布教である。前を通る人に、「金光教さんはいつもきれいにしているなあ」と感じて頂けたら、金光教に好意を持って頂いたり、金光教の存在を世間に認知して頂けることにつながるのだから。何も難しく考えることはないのだ。教会、教団の活動に積極的に参画し、ささやかでもいいから自分に出来ることをしていこう。

また、教会のお手伝い、先生のお手伝い、という意識を、神様のお働きの中身になるという意識に切り替えたい。神様は世界の人に助かってもらいたいと思っておられる。その御神願実現のための御用に参画しているという気持ちで、自分の御用をさせて頂くことが大事だと思う。

3、輔教の喜び
人の喜びを我が喜びとし、教会・教団の発展を我が喜びと感じよう。さらに、神様に使って頂けることを感謝し、お徳を頂く生き方を貫こう。お徳はお金やものより確かなもの。御用をさせて頂くことは、必ず、自分がおかげを受けることにつながっていく。

4、談話後の懇談
講話終了後、感想を言いながら自己紹介、続いて懇談に移りました。以下、出てきた意見を列挙します。

・輔教の働きがよくわかり、今日参加してよかった。

・教会の前をよくお掃除しているが、それも立派な布教だと言われて、うれしかった。

・私なんかが、輔教でいいのかと思っていたが、下から支えるのであれば出来るかもと思い、気が楽になった。

・私もよく教会の前を掃除しているが、それも布教であるというお話を聴いて有難い。

・若くして輔教になり、古い立派な信者さんに、「あなたは輔教なんだから決めてリードしてよ」と言われる。下から支えるというお話を聴いて気持ちが楽になった。教会に輔教仲間がいなかったので、心細い思いをしていたが、こうして大勢の輔教仲間に会い、悩みを聞いてもらえることがとてもうれしい。今日はガス抜きになった。これからも参加したい。

・私は、御用したいので輔教になった。御用をすることでおかげ頂けるのだと思っている。これからも積極的に御用を探していきたい。

・私は当初、信者に区別・差別するのかと思って、輔教制度には反対だった。かなりあとになって、輔教になった。教団の願いは、金光教の布教を視野に入れた輔教制度なのだと今は思っている。積極的に布教を意識した活動をしてゆきたい。

・長年、輔教をしているが、あまり自覚がなかったと反省している。掃除することでさえ布教だという一言に、勉強させて頂いた。

・教会に輔教はおられるが、連合会として何もまとまっていないなあと感じた。輔教の活かし方を模索して、広く活動して頂くために、連合会として連携してゆきたい。

・輔教になる前となってから後と、何も変わっていない。前からしていた御用を続けているだけ。元々、御用に軽重はないと思っているし、輔教になって一般の信者さんと違うと考えたこともない。これからも自然体でありたい。

・一人ひとりが自覚を持って何かをしていけば、それが結果として教団発展の力になっていくのではと思う。こうして集まって懇談することで情報交換となり、こういうことも出来るなあという気づきにつながると思う。また悩みや辛さを吐き出すことで、アドバイスが得られたり、元気がもらえたりということもあるだろう。希望を持ち、励まし合って輔教としての活動を考えてゆきたい。とりあえず、こういう会合を続けていきたいものだ。悩みや喜びを共有することで、仲間意識が芽生えると思う。

・連合会の行事にも積極的に参加してもらって、お互い親しくなることも大切。

・ネットワークを作る、メーリングリストとか掲示板とかも考えられるが、とりあえず、今日のところは住所とアドレスの名簿作りに協力して頂きたい。

・今日は山梨からの参加はなかったが、ぜひこの次は来て頂きたいものだ。教会や地域の垣根を越えて悩みを吐露することが出来て、今日は心が軽くなった。

 次回の輔教懇談会は9月3日(日)13時半~16時、武蔵小杉教会2階ホールということで散会した。
(文責 大塚)
2017年02月19日